あれから一年・・・ 

去年の今日から私は5日間のあの苦痛の5日間を味わうことになった・・・そう、あの呪わしい腎生検から今日で丸一年・・・。

なんだか信じられないけど・・・一年かぁ・・・速かったんだか遅かったんだか。
なんだか良く分かりません(苦笑)

でもあの日、まさか一年後まで「お病人」やっているとは、ホント、思っていませんでした。
昨日まで元気元気の健康だった人間が突然「お病人」になってしまう・・・ってあるんだなー、と身をもって感じたこの一年だったような気がします。

一年経って、まあ、なんというか割と気持ちも状態も落ち着いてきた気のする昨今。

今まで余り詳しく書かなかった、そして結局のところ一番自分が苦しめられた薬のことなど、ちょっと書いてみようかな、と思いました。

今まで本当に自分のことで精いっぱいだったのですけど、今後、ちょっと「踏んで」しまってこの薬を飲むことになってしまった人に・・・少しでも参考になるかな、と。
賛否両論ある薬で、実際その副作用はかなりの苦痛を伴うけど、でも時間がたてばちゃんと減るし、減ればちゃんと元に戻ってくるんだよ、ってことをお伝え出来れば、と思って・・・。

more...

東京「お入院」生活 15・出所 

去年の今日、我が家は家族3人で京都の桜の中に埋もれていた。

桜といねの写真は例えようもなく愛らしく、私は夢中で重いイチデジを構えつつ撮影し、そしていねに数え切れないくらいの頬擦りを繰り返した。

行く途中浜名湖に1泊、全行程5泊6日の楽しい楽しい京都旅行。
しかも最終日には憧れだった「めざましテレビ」の「きょうのわんこ」コーナーにいねが出る予定になっており、それもまた楽しみにしつつ、まさに桜色の夢のような数日を過ごしていた。

桜愛でるいね



ところが今年、私は外で直接桜を見ることなく過ごした。

最愛のいねを抱き上げることも出来なくなり、手で撫でるのみになってしまった。

朝晩、薬の副作用に抵抗する為に育毛剤を頭皮に叩き込み、家の中でも常にマスク。
薬の副作用で顔は丸く膨れ上がり、皮脂分泌が亢進し肌荒れが酷い。
外部との接触は極力避け、常に除菌グッズを携帯する毎日・・・。

食材の買出しには出るものの、少し疲れてくるとたちまち私の筋力の衰えた足は軽い痛みを伴って言うことを聞かなくなり、歩き方が変になる。

私のようなぬぼーっとした大女が足を引きずる姿というのは大層珍奇で面白いらしい。
ほとんどの人が会話を休めてまでも私の歩き方を凝視してくれる。
そしてその後免罪符のように「気の毒ねぇ・・・」と哀れむようにつぶやくのがお決まりだ。


・・・気の毒、確かに気の毒な姿かもしれん。



ただな!!


期待に沿えず申し訳ない所なのだが・・・実は私はこうした生活に全然傷付いてない。
以前の私だったら酷く傷付き、悩んでいたような状況だと思うが、今は全くと言っていいほど何も負の感情が湧いてこない。

何故かといえばこうした負の部分以上に幸せが溢れてしまっているから
・・・それに尽きる。

朝、自分の意思で上体を起こせる。
自分の意思でベッドから降りて、自分の足だけで歩く。
トイレに行き、蓄尿 (私達腎臓あぼん組はとにかく24時間採尿しないといけないのだ) を気にすることなく過ごし、トイレから出たらゆっくり手を洗う。
寝たきりの時は手も洗えなかった。おしぼりで拭うのみ。
手を洗ったらお気に入りのハンドクリームを擦り込む・・・

もうこの時点で私は毎日「ああ、なんて私は幸せなんだろう・・・と天を仰ぐ。
こんな私がいちいちツマラナイ負の感情なんかに目を向ける暇などありゃしない!


なんというか2月初めの自分と今の自分はもう全く別人。
身体的には、もう欠陥品みたいなもんになっているけれど、それでも実は今の自分の方が以前の自分よりも少しマシな人間になったんじゃないか?と自惚れていたりする。

他人から見たら多分私の現状は哀れに見えるのかもしれない。
いや多分哀れなんだと思う。

でも私の幸せのハードルは1センチしかない(笑) 
今、信じられない位、私は幸せだ。




退院当日は私が確信していた通り、暑い位の快晴だった。
私は「勝った」と思った。
何に勝ったのかよく分からない。でもとにかく私は最後の最後で何かに勝った気がした。

総ての手続きを終え、車に乗った私は家に着くまで何故かずーっと泣いていた。
嬉し泣きなのか、浄化させるためなのか、なんだか良く分からなかったがとにかく入院生活で辛かったことを洗い流すように涙が流れ続けていたのを覚えている。




だらだらと書き続けているうちになんと15話まで膨れ上がってしまった我がお間抜け入院記録である。

我ながら 「ここまで書くなよ」 というような所まで書いてしまい、なんだかな、という気持ちも無きにしにあらずなのだが、病院生活なんてのはこうした生臭いものだっりするのが本当の所ではないだろうか。
病と闘うのはまさに血と汗と涙にまみれる行為なのだから生臭くて当然だ。
(ま、私は直接病と闘うというよりは後始末と戦った感があるんだけどな)


お見舞いの薔薇の花束と美しいスイーツに微笑む、なんてのは幻想の姿だ。


ちなみに生花には雑菌が、スイーツには砂糖と脂質が。

これは病によっては治療の妨げになりかねない。
(しかし見舞いというと何故か今だにこの二つが定番なのは何故だろう?)

ありがたく頂いたコメントの中でとても私の気持ちを上手く表している言葉があった。

「明けない夜は無い」

・・・今回のお間抜け展開続出の入院生活の中にふさわしい言葉だと思った。
どんなに悲惨な目にあってもどうにか出口は見えてくるものなのだ。
悲惨な目に遭えば遭うほど出口を出たら薔薇色の人生が待っている。

そして今回途方も無く阿呆な「踏み」を繰り返し、もうどん底気分を数回味わったわたくしの気持ちをちょこっと付け足させて頂くとまさにこんな感じであろうか。
なんだか上手く便乗してしまったようで申し訳ないが・・・。

まさにこの一言。


「夜明けの前が一番暗い」





あとがき ・・・って感じで。


退院してこうして自分の経験したことをダラダラ書くことで私は随分と今の自分を受け入れられるようになってきました。
こんな個人の戯言にお付合い頂いた上、暖かいコメントを下さった方々には心から感謝の気持ちで一杯のnauであります。

現在私の体調は日々回復していると思います。
このまま一日も早く、愛犬・いねを抱き上げ、嫌われるほど頬擦り出来る日を迎えたいと切に願ってやみません。

今回こうして許容量の狭い私的にはかなりツライ展開を踏んだ入院生活でしたが、今にして思えば私の病状などハッキリ言って大したものではなく、私等比べ物にならない位辛い治療や検査、病状に耐える人が同じ病棟にも沢山いらっしゃいました。

そうした方達の存在を知りつつもこうして図々しく「大変だったのー辛かったのー」と垂れ流すのも申し訳ない話なのですが、お読み頂いた方々が「あちゃー」と思う位、お間抜けな「踏み」をココまで繰り返す患者、という意味では私は結構いいレベルにいくんじゃないかと自惚れていたりします。

大して病と闘うことも無かった私の「闘病記」が今後何かに軽くつまづいた折などに、「ま、あのnauよりはマシだよね」 と気を紛らわせる記憶の一つになれたら。

・・・おこがましいですが、今、そんな気持ちでおります。






さてさて、コレでもって一応最終回になるのでございますが。

5週の入院生活の中ではなかなか面白い出会いや見聞が沢山ございました。
そりゃあまあそうでしょう。だって普段だったら絶対に接しない人達とイキナリ「合宿」しちゃうんですからね!

もーカルチャーショック受けまくりでしたよ、わたしゃ!!
余りにも痛快なエピソードを作ってくれる人が多いこと多いこと。
いやー普段って本当に自分と似ているヒトとしか付合いって無いものなのですね~、これは斬新な経験でした。

そんな訳でそんな楽しい?エピソードをチョコチョコと書き続けてみようかな、などと思っていたりします。
もう「お入院」は終わったので、番外編(?)として・・・タイトルは

「イキてるヒト達」

・・・とでもしましょうか。
 ある意味「イケてる」ヒト達でしたし、何より物凄く力強く「イキている」ヒト達だったのでちょっと掛けてみました(笑)
どこまで真面目に書き綴るか、気持ち的にひと段落ついた今なので、不定期になると思いますが・・・



・・・私の入院生活って、実は結構楽しかったのかもしれません。


  

・・・・・・・・・ 完  ・・・・・・

東京「お入院」生活  14・前夜 

三十と数年の人生の中で、退院の前夜ほど穏やかな夜を私は味わったことが無い。

普段30分しか入れない風呂だが、私の直前に予約していた同じ部屋のお婆ちゃまが「nauさん!明日退院なんでしょ?ワタシ、夜に妹が来ることになったから今日お風呂入らないことにしたの。私の分そのままにしてあるから、1時間、ゆっくり入ってきて!!」と風呂の時間を譲ってくれた。

私の余りの「踏み」っぷりに哀れを感じていた同室の人達も口々に「直前まで気が抜けなかったけど、さすがにもう安心だねぇ、退院おめでとう」と言ってくれる。

最後の夜の担当看護師は腎生検当日、私のカテーテルを入れた看護師だった。
よくよく考えてみれば5日間入れていたカテーテルだ。もし彼女の入れ方の具合の良し悪しによっては尿道炎等を併発していたかもしれない。
それを思って私は血圧と脈を計ってくれた後礼を言った。
「カテーテル、ちゃんと入れて下さってありがとうございました。もしあれで傷付いて炎症を起こしていたりしたら私は立ち直れなかったかもしれません」と。
看護師はこの変な礼にさすがにちょっとビックリしていたが、去る時「色々大変でしたね、退院おめでとうございます」と穏やかに言ってくれた。

その夜、私はあえて睡眠薬を飲まなかった。
やっぱり眠れなかったが、それで良かった。
最後の夜を堪能したかった・・・なんでか分らないけど、とにかく最後の夜じっくりと過ごしたかったのだ。


いねカット5



麻疹騒動は本当に多くの人に不安と迷惑を撒き散らした。

限られた空間。ウィルスが明らかに漂っているその空間からは私は逃げたくても逃げることが許されない。
隔離病棟という普段では考えられない空間は今までの人生観を少し変える位のインパクトのあるものだったと思う。
腎生検以来、出血・発熱・余り良くない検査結果・衰弱・・・全くロクなことが無い。
その上こんな騒ぎに巻き込まれ、6日も恐怖に慄いたのだ。
一体どれ位の入院患者が入院時にこんな事態に遭遇するというのだ。

・・・と言っても当事者の方も好きで発症した訳じゃないし、仕方が無い。

麻疹騒動が治まった時、私は同室の人達とまあそういう風に話して納得をすることにした。




そして翌日木曜。毎週の教授回診。
どうも教授なる人に私の治療計画が伝わっていなかったらしく、いきなり「お薬が始まりましたから、効果を見るまで、まあしばらく退屈な時間になっちゃいますけど、まあのんびりと構えて・・・」と語りだされてまた焦るわたくし。

すかさず担当ボーイズのリーダーが「あ、教授、nauさんは今週末退院です。リュネット先生とご主人が相談されてそう決まりました」とおっさる。
「え?この薬の量で退院?!」 
・・・なんと患者を不安にさせてくれる教授でございましょう・・・。
一応「巷では大変に風邪が流行っていますからくれぐれも感染には気をつけて云々・・・」とフォローは入れてくれたものの・・・。

一週間の一番のメインイベント、教授回診でお墨付きを戴けばもう私の土曜の退院は確実のはずだ。さすがに私はこの時点で安堵のため息をついた。

しかし。

そうは問屋が許さないもので、後もうひと騒動が退院前日にちゃんと準備されていた。




退院前日の金曜。
私の居る6人部屋の一番入口に近いベッドに新患さんが入院してきた。
この時点でこの部屋に居るのは私を含めて同科の免疫がホリデーしている4人。
・・・ベッドに入ってきた新患さんは最初から異様だった。

とにかく咳が尋常ではないのだ。
時に派手に喀痰している。

私達はとにかく感染が一番怖いのでことに咳には特にナーバスである。
・・・全員自分のベッドに戻りカーテンを閉めた。
そこへ我がボーイズが挨拶と問診に登場し、カーテンの中に入る気配がした。
大部屋の哀しさで、カーテン一枚隔てただけの問診だ。嫌でも話は耳に入ってくる。別に盗み聞いている訳ではない。おまけに我がボーイズのリーダーの声は何故かカン高い。

新患さんはどうやら関節や腰の痛みが主訴らしいがその理由がどうにも「咳」らしい。

「咳がね・・(ゴホゴホッ)もう、止まらなくて、 (ゴホッ)それでもう背骨や腰が(グェッ・喀痰)痛くて(ゴホッゴホッ)・・・」

こんな調子。
罹患暦を確認するリーダーにこの新患さんは喀痰しつつこう応えた。

「200X年に結核をやりまして・・・」   
                                  (ガァッ!・喀痰)





・・・ぱおーん  




「ケ、け、ケ・・・結核ッ?!ちょっ・・・そ、それでそれは治癒されたんですか?!」

さすがのクールボーイズも度肝を抜かれたらしい。なんとも間抜けな質問をしている。あれだけ咳・喀痰をしていて治癒もヘッタクレも無いではないか。

果たして新患さん

「さぁ・・・多分薬を(ゴホ)貰ったのでそれで・・・(ゲホ)治癒かどうかは(グェッ)しりませんが・・・」

とぞのたまいける。

私達4人が窓際に集まったのはほぼ同時だった。窓を開け、風上を意識し4人で固まる。
結核は空気感染する。とにかく風上に立たねば!4人ともそう思ったのであろう。
病棟用の青いマスクをがっしりとつけた4人は窓際に固まった。

担当医が去って直ぐに看護師が新患さんにマスクを届ける。
「これをしっかりつけてベッドから出ないようにして下さい」

・・・これからがまた大騒ぎだった。
結局この新患さんはナースステーション前の個室に隔離されることになるのだが、その準備までやく3時間を要したのである。その3時間、私はどれ程ウンザリしたことだろう。

これは前回の麻疹とは明らかに様相が違う。
本人は明らかに知っている訳ではないか、自分が結核罹患者であることを。
そして結核がヒトに感染する病気であることを。

同室のおばさんが言うには「ああいうのって、自己申告しちゃうと個室代がかかるから言わないでおいて、病院側から強制的に個室に入れられるようにするみたいよ。それだと個室代が掛からないから」・・・らしいが、だとしたらもうとんでもない迷惑な話ではないか。

3時間後、個室の準備が整った時点で彼女はベッドごと移動して行った。

もう本当に全く最後の最後まで生きた心地がしなかったが、正直これまでの展開にショックの閾値が上がっていたのだろうか、今回は恐怖感は感じなかった。
・・・相当な怒りは感じたけどな





最後の最後までお間抜けで「どんだけついてねーんだよ」な展開の私の入院生活はこうして最後の夜を迎えた。


そして最後の夜は 土砂降りの春の嵐・・・。  (←どんだけ)



でも気持ちは不思議なくらい落ち着いていた。
窓の外では暴風雨の音が ンゴゴゴゴゴゴ・・・!!!! という位響いていたが、私は何故か「明日はきっと晴れる」と強く確信していた。


東京「お入院」生活  13・復活 


いねカット8


                 
隔離される立場というのはなんとも嫌なものだった。
小学校の頃、汚いものに触ってしまった子に対して「バーリア!!」とか「エンピ!!」と言って逃げる悪ふざけがあったが、自分がその立場になった時の気分を思い出す。

ちなみに「えんがちょ」というのがポピュラーらしいが、私がこの言葉を知ったのは二十歳間近であったように思う。これも日本全国津々浦々で結構変化があるらしく、石川県出身の人は「ミッキ」(「見切る」が語源?)と言っていた。


隔離された病棟は静かだった。
いつもにぎわう午後の見舞い時間も人少なく、患者同士も心なしか距離を置くようになり、部屋前にある消毒薬の減りが異常に速くなった。

ちょうどその頃テレビで内藤大助選手のボクシングの試合があった。
ボクシングの試合なんて普段観ないがこの時は観た。
観ながらぼんやりと「どんなに小さくてもいいから麻疹ウィルスにも色がついていたら良いのに」と思ったのを覚えている。
そしたら相手のパンチを交わす内藤選手のように必死にウィルスをよけてやるのに。



麻疹騒動によって多くの患者の治療計画が狂わされた。

治療開始が週明けだった人は延期されることになった。
痛みにやっと終止符が打たれると思っていた人も治療開始が遅れることになり、更に痛みに苦しめられることになった。
最終の点滴を予定していた人はそれを基準に退院の日取りを予想し心待ちにしていた。
その点滴も遅れれば総てがまた先遅りになる。





・・・私の女神・いねはやはり私を守ってくれていた。

もし、一日、私の投薬開始が遅れていたら私も同じように治療開始が遅れていた。
当然退院も延期になっていたはずである。
しかしギリギリ、その日の朝に私の投薬は始まっていた。
開始された以上、急に止める訳にはいかない。
そのまま予定通り投薬治療が続けられ、退院の予定も変更無く進んだ。

いねは本当に私の女神だった。
この小さい体で私を必死に守ってくれていたのだ。




隔離が解除されたのは水曜日の朝だった。
全員の麻疹抗体が確認され、発熱発疹を示す人も居なかったことが確認された。
・・・私にもしっかり麻疹の抗体があった。

この前日同室の人が私と同じ腎生検を受けた。
病棟内で出来るということで隔離された状態でも予定通り行われたのだ。
その人の腎生検は悔しい位アッサリと成功した。
腎生検の翌朝、つまり隔離解除された朝であるが、彼女はスタスタと私の元に歩いてきて「色々教えてくれてありがとうね~、一晩寝たきりって辛いわねぇ、テープにかぶれちゃって、背中が痒いわぁ」と挨拶に来た。

テープかぶれ・・・実は安静解除された時、私の背中はテープかぶれどころか真っ赤にただれていたらしい。消毒をしてくれた看護師が見るなり「うわ・・・」と絶句していたほどだ。
でも私は痒さなど一度も感じなかった。
それを感じることが無いほど痛みにまみれていたのだ。

この時、私は余りの悔しさから号泣し、その思いをブログにアップしたりした。
(今となってはタイトルにくだらないシャレをかけている辺りがやや気持ち的な余裕を感じるが)




私が物凄く単純で、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の典型なのかもしれないが、実は今この頃の記述を読むと違和感を感じる。

今となってはそんなに怒りも悔しさも感じなくなってきている。

自分でも不思議なのだが、日々こうして自分の辿った5週を綴っているうちに自分の中で何かが落ちついてきたような感じとでもいおうか。
自分で書いていて文章の感じも違うと感じる。

どうして自分にこんなことが降りかかるの?!
私が何でこんな目に遭うんだ?!酷い!!
もう最悪!!どうしてどうして?!


・・・というようなあの時の気持ちはもう全く無い。

これらは全部自分に起きた出来事で、辛かったし痛かったし哀しかったけど、でもそれで私は全く今迄と違う自分に変わったのは事実で。

実を言うと以前の自分より、今の自分の方が好きだったりする。
かなり出来損ないな状態だけどさ(苦笑)




病棟隔離解除(一体私は何度の解除を味わったのだ)後、私は「一応順調」に退院への道を歩むことになる。

そう 、「一応順調」 にだ。


私の退院は最後の最後まで「おいおいおい、そうきたか」という展開から外れない。
まぁでもこの辺になると完全に驚きの閾値が上がっており、ショックというよりは笑いに近い感覚だった気がする。

この辺の顛末は次回、笑いを込めて書きたいものである。

東京「お入院」生活  12・襲来 

もう4月。

ついこの前人生初のスキーをしていた2月だったような気がするのにもう桜の季節。
この2ヶ月は本当に一体なんだったのだろうかと他人事のように思えてくる。

退院して半月が経った。

退院した直後、私は精神的にかなり不安定になっており、主殿に当ることも多く、あんなにも嫌だった病棟へ戻りたい!と血迷う時も実は数回あるような、そんな状態だった。

ところが意外にもこうして文字に自分の経験を綴ることで意外なほど速く冷静さを取り戻せた。
そういえば何かでこうした療法があるようなことを聞いたか見たかしたことがある。
トラウマを抱えるようなショックを受けた患者に対してあえてその記憶をよみがえらせて耐性を養うような療法だ。ネットで調べてみるとどうやら暴露療法というものがそれに当るらしい。

私は勿論カウンセリングの知識など全然無いのでこの辺の専門的な解釈は全く出来ないし、もしかしたら全然当っていないのかもしれない。

でも自分に起きた酷い出来事をこうしてあえてつづり、公表することによって私はその経験を自分のものとして受け入れることが出来た気がする。

これも一つの新しい療法かもしれない。
・・・そうだな・・・ブログ療法とでも勝手に名付けさせて頂こうか(笑)




いねカット10

                    ホントか?


3月7日の朝のことは忘れることが出来ない。

あの日の朝の回診の光景はきっと物凄く美しいものだったに違いないと思う。
先の見えない状態からやっと治療が始まることが決まったことで私はその夜、久しぶりの睡眠薬の無い眠りを堪能した。


朝食後、渡された新しい薬たちをしっかりと飲み下す。
これから嫌と言うほど副作用に苦しめられるだろうが耐えられる自信があった。
普通の女の子だったら絶対に嫌がるような副作用満載の薬達だが、むしろ「上手く付き合っていってやる!」と挑むような気持ちを持って一粒一粒口に運んだ。

飲み終えた頃に回診にやってきた主治医は私を一目見るなり「nauさん、今日はよく眠れたみたいですね、なんかそういうオーラを感じますよ」と言ってきた。
クールな主治医がこんな風に言うのは実に珍しいことだった。
私ももしかしたら初めてかもしれない位穏やかな口調で応えたと思う。

その日、新しい治療に対して真摯な気持ちで向き合おうと、私は数日前友達が見舞いにくれた新しい真っ白なパジャマを着ていた。
朝日に照らされる病室で和やかに語り合う白い私と爽やかな(でも一言多い)青年医師・・・。
嗚呼、私があと18歳若かったら まるでサナトリウム文学の挿絵のような図ではないか。
(うっとり)


久しぶりに本を読み、穏やかな午後を過ごす私だったが、この時既に呪わしい赤い影は活動をひたひたと開始していた。

赤い影がその全貌を明らかにしたのはこの日の夕方。


この日、大体4時半位に来る夕方の回診が来ない。
回診が来ないと私達はトイレに行くのも気を遣う。そわそわした時間が過ぎて行き、遂には夕食が先に来てしまった。
すると夕食と同時に担当医2人が「遅れてすみません」と回診に訪れる・・・いつも居る主治医が居ない。・・・なんでも急患だという。

ふーん・・・と聞き流し、医師が去った後、再び箸を手に夕食を食べた。

しかしそのまた5分後、カーテンの向こうから先ほどの担当医の声が聞こえてきた。


「○○さん、実はこの病棟で麻疹が発生しました。
そこで患者さん全員に麻疹の罹患暦とワクチンの接種歴をお伺いすることになりました。○○さんは麻疹には罹ったことがありますか?」




・・・麻疹?



「箸を落とす」という表現があるが、この時私はまさにその通り、箸を落とした。



私は麻疹をやっていなかった。
私の世代は麻疹に関しては割と警戒が少なく、ワクチンも、確かしてない。


大部屋の哀しさで担当医が私のカーテンに手をかけるまでに既に私は2回同じ説明を聞いた。
「nauさん・・・」と声を掛けられた瞬間に

「麻疹やっていません!ワクチンも・・・どの病室から出たんですか?!」

と金切声に近い声を上げた。

医師は「い、いえ、それは患者さんの個人情報ですから申し上げられません。ただnauさんがその患者さんと接した可能性は非常に低いはずですからそんなに心配しなくても大丈夫です」と慌てて言う。

何を言うのか。

この病棟に個室以外のトイレは一箇所しかない。
しかも皆が使う洗浄処置室は男女共同だ。
どうして接触の可能性が無いと言えるのだ。

腎生検後の出血、発熱と続いて、もし三つ目が来るのだとしたら再出血あたりかと睨んでいたが、全く予期しない罰ゲームが待っていたのだ。
まさに私の女神・いねでは対処しきれないような赤い大きな影が病棟中をすっぽりと包み込んだのである。

院内感染・・・

このおぞましい四字熟語が自分の身に降りかかろうとは。
しかもあんまりだ。
やっと長い迷路を越えて新しい一歩を踏み出したその日になんでこんなことが起きるのだろう。

もし感染していたら私はどうなるのだろう?
私は今朝から免疫を極端に下げる薬を飲み始めたばかりだ。
こんな薬を飲んでいて麻疹にかかったら・・・?

ちなみに私の科のほとんどの患者は同じような治療をしている。
その為麻疹の抗体を持っていたとしても正常に機能しない可能性があった。
皆の顔色が一時に変わったのも無理は無い。

それからはもう病棟中がパニックに陥った。
誰も確かな情報を持っていない。噂が噂を呼び、憶測が飛び交い、曖昧な情報が錯綜する。
廊下で医師に噛み付く患者が居る、その会話を角から聞き耳を立てる患者が居る・・・

確実に麻疹に罹った記憶のある人は面白がるように「あれも大人になって罹ると大変なのよね~目の中まで赤いブツブツが出来るのよ~」等と声高に話す・・・。

まさに眠れぬ夜。私は再び睡眠薬を手にした。





麻疹狂騒曲がジャンジャカ奏でられる中で私達の病棟は隔離されることになった。

隔離病棟・・・なんだか遠い世界の出来事だったようなことが今自分に起きていた。
エレベーター前に置かれた3つの白い看板。
私はそれを越えることが許されない立場の人間になったのだ。



もし・・・数日内に発熱・発疹が出てきたら・・・私は一体どうなるのだろう?
今日から投薬開始、1週間様子をみて特に酷い副作用が出る様子が無ければ、上手くすれば一週間後退院出来る予定だった・・・それはどうなるのだろう・・・。


どうして・・・私が喜んだり笑ったりするとこんな風に意地悪をされるのだろう?






この翌日、私は携帯からブログ投稿をしていた。
「嫌われnau子のひと月」 ・・・もう本当にショックだった。

東京「お入院」生活  11・女神 

今迄の記事で私は私の苦痛のみしか書いてこなかった。

その時はやはり自分のことで精一杯で人を思いやる余裕は無かったし、とにかくあの「下界」に居る人達は自分よりも絶対に幸せな人達だと思っていたからだ。

でも今にして思うと、母は勿論、主殿も相当辛かっただろうと申し訳なく思う。そしてもちろんいねも。

自分で自分が受け入れられない状態が続いたのだ。
他人である主殿がどうしてそんな私の状態を受け入れることが出来るのだろう。
訳の分らない展開に戸惑っていたのは私だけではなかった。
家で、会社で、そして海の向こうで、きっと主殿も私以上に苦しんでいたに違いない。

あの時期、私達家族は何一つ進歩の為の術を持っていなかった。




女神


 (入院中私はいね会いたさに何枚ものいねを描いたが、その中で一番気に入っている絵がこれである)


帰国して翌日、一週間ぶりに病棟に現れた主殿は明らかに狼狽していた。
出張前最後に見た妻も酷い状態だったが、出迎えた妻はゴボウのようにやせ細り全く表情を失った状態で膝を抱えていたのだから。
この時もう私は前日のフライト遅延のショックで表情を作ることすら億劫になるほどぼんやりしていたのだ。多分、目など澱んでいたことだろう。

絶対大丈夫といわれた保存庫に入れたおいたシュークリームが1週間後明けてみて萎びたゴボウになっていたら誰でも呆然とするに決まっている。

主殿が来たことを知った主治医が早速私達をカンファレンス室に呼ぶ。
部屋では先日と同じ説明を受けた。まだ治療法は決定されていなかった。

説明を受けるや否や主殿は私をとにかく一端家に帰すことを要求した。
あんなに元気だった妻がこんな状態になってしまって、その上このままそんなきつい治療はとても無理だ、とにかく一度家に帰って体力と精神面を少し回復させてからでないとおかしくなってしまう。

そう主張する主殿をぼんやり眺めていたら、なんだか私が無実の罪人で、主殿はそれを救おうと奔走する有能で熱い弁護士のように見えてきた。

そんな主殿の要求に対して主治医はきっぱりと言った。
「ご主人の仰りたいこともよく分かります。nauさんは悪いことが立て続いてしまい、今ちょっとこういう状態になっていますが、それでもこの状態が落ち着いて治療法が決定し次第、すぐに治療に入らなくてはなりません。家に帰すことは許可出来ません」

この白い空間では有能な熱い弁護士よりも医師が絶対だった。

もう誰もここから私を出してくれない。助けてくれない・・・

この日もこの後どうやって部屋に戻ったのか、どうやって主殿を見送ったのか、あまり良く覚えていない。




翌日の日曜。私はぼんやり過ごしていた。主殿が何時に来るのか分らない、いや、来るか、来ないのかも。

検査も回診も無いしまりのない一日がダラダラと過ぎていた。

午後一時を廻った頃だろうか。突然主殿から電話が入った。
私は携帯エリアにフラフラと移動し折り返す。

「nauさ、今日体調どお?熱は?」

「別に、特に無いけど・・・」

「エレベーター乗れる?」

「・・・?」

「あのさ、・・・駐車場まで、来れないかな?無理そう?」

・・・もしかして。  と私の心臓はバクッと鳴った。

携帯を切るのももどかしくエレベータに向う。実は私は寝たきり以来すっかり足腰が弱ってしまい、怖くて自分の病棟以外の階に行けなかった。
まさに10日ぶりのエレベーター、移動・・・でも躊躇する気持ちは全く無かった。

日曜の見舞い客でごった返すエントランスをモタモタと抜けた。
フラフラとガラスの自動ドアをくぐり、周囲を見渡した。

真正面に見えるのはウチの車と傍に立つ主殿と・・・

助手席にモゴモゴと動く懐かしい私が作ったキャリーバッグ・・・!!




いね・・・!!



私は号泣しながらフラフラと車に擦り寄った。 (←本当は駆け寄りたかった)
何かを感じたのかキャリーバッグの巾着部分からいねは鼻を突き出し顔を突き出そうともがく。
鼻が出て、目が出て・・・最後に耳をブルンと一振り・・・・

いねは私を認めると更にモゴモゴ動いて前足を出しガラスに手を付いた。
懐かしい肉球・・・いねだった。

私はガラスにベッタリ頬を寄せ、周囲も気にせず「いね、いね」と絶叫した。

この時・・・私は世界中のワンコオーナーさんに謝りたい。
・・・この瞬間だけ、私はいねが世界一の犬だと思った。
まるでいねは女神のように光り輝いて見えたのだ。

いねはガラス越しに私の顔をペロペロ舐めていた。
傍から見たら明らかに頭のおかしい患者の図だ。

「先生が『いねちゃんも頑張ってますよ』って言ってたよ」

この時、私にとっていねは女神なら主殿は神かも、と思った。
この日も主殿は仕事で、私達の逢瀬はわずか10分程だったと思う。
忙しい中でこうしていねを連れてきてくれた・・・
静かに去っていく車を見送る時に私にもう寂しさや辛さは無かった。




部屋に帰ると私はいきなり物凄い勢いで寝てしまった。
入院してからあんなに爆睡したのは初めてだ。
もう私はどんなリラクゼーションサロンだろうがヒーリングサロンだろうが、行けないと思う。
あのいねよりもα波を出すサロンなど存在しない・・・!!

4時に点滴を付けにきた看護師が手をいじっていてもなかなか起きなかった位だ。
冷たい液を体内に感じて初めて薄目を開けた。看護師が不思議そうに言う。

「nauさんが昼寝してるなんて珍しいですね。随分気持ち良さそうに寝てましたよ」

言ってもいい気がした。多分適当に判断してくれるだろう。

「私ね、さっきいねちゃんに会ったんですよ」

いねの名前は看護師全員が知っていた。何しろ入院当日から私は二言目には「いね」を連発していたからだ。

果たして看護師はニッコリ笑って

「それはいい夢をみましたねぇ。眠れるようならもう少し寝た方が良いですよ。nauさん最近ずっと睡眠薬使ってましたからねぇ」

と言ってカーテンの向こうに消えた。


その後の経過を話すと、いねとあった瞬間以来、私の体調と経過、また治療法に関しては総てがいい方向に進んでいく。
あんなにくすぶっていた熱がもう上がる気配を見せず、めでたく点滴が外れる。

と同時にリュネット先生の判断により、治療法が中等度のものを選択することに決定した。
そして嬉しいことにリュネット先生が私の生活環境、治療に関する理解度などを踏まえた上で、本来であれば入院して経過を見なければいけないレベルの投薬量にも関わらず自宅療養を考えていてくれていることも分った。

投薬は辛いが家に帰れる可能性が出てきた時、私は本当にいねは私の女神だと確信した。

点滴を外して丸一日、熱が再燃しないようであれば、翌日から投薬を開始しましょう、という話を受けた時、どれ程安堵したことだろう。


ところが。


いねは「私にとっての女神」であった。

私だけには効力を持っていても、それ以外には効力は持って居なかった。


女神・いねの力が及ばない、赤い大きな影が私達の病棟に静かに忍び寄っているのを、この時病棟の誰もが全く気付いていなかったのである。

東京「お入院」生活 10・底辺 

昨日、入院中知り会いになった方の退院祝いに病棟に駆けつけた。
ロビーで久しいお喋りに花を咲かせていると、私の担当だった医師が通り掛り「nauさん」と声を掛けてきた。

入院中、私は主治医だった彼に対し、物凄く悪意に満ちた感情で接していたし、自分の状態を全部彼らのせいにしてた。

今にして思えば私のお間抜けな展開は別に彼らのせいでも無く、タダ単に私の運が本当についていなかっただけであり、彼らとて余りの「踏み」っぷりに翻弄され、それに対しそれなりに必死に対処をしていたのだと思うようになってきた。

患者の状態を悪くする為に動く訳は無い訳で。

状態が良くなり、退院を間近に控えた頃、私はやっと彼らの顔を見て話が出来るようになってきた。

退院後、今はもう大分気持ちが落ち着いてきたせいか、昨日はしっかり彼の目を見て「お陰さまで出戻らずに元気にしております」と言えた。

一応自分なりに感謝の気持ちを込めたつもりだったが・・・少しは伝わっただろうか?

地味で長い付き合いになる私の科は医師の数が心なしか少ない印象がある。
考えてみれば彼らの存在が私達の命綱なのだ。
どうか、これからも頑張って欲しいと思う。
私のお間抜けな「踏み」っぷりも彼らの臨床経験の足しになるのであれば、まぁしんどかったけど、それでもいいか、と思えるようになってきた。

・・・でも、やっぱり先生、アナタ、一言多くて一声少ない御方かも(笑)




いねカット9


安静解除と共に一緒に外された点滴が再び右手にぶち込まれた。
再び捕まった私はこれから10日間点滴に拘束されることになる。

私はぼーっとしているせいか熱には割と強い(と言うか鈍い)ので、抗生物質の点滴が落ち始めた時「まぁ明日には下がるだろう、そしたら明後日には家に帰る」とぼんやり考えていた。
もうとにかく何が何でも家に帰りたかったのだ。

しかし熱は全く下がらなかった。
朝夕、2回キッチリ抗生物質は流し込まれるのに一向に熱は下がらない。朝は7度位まで下がるのだが午後には9度近くにまで跳ね上がる。
既に六日近く風呂に入っていなかった私はたちまち饐えたような悪臭を放ち始めた。
熱が辛いのか、悪臭が辛いのか、なんだかもうこの頃は良く分からなくなっていたような気がする。
私は当初1週間の入院のつもりだったのでパジャマなども四着位しか持ってきていなかった。しかもパジャマというよりはルームウエアのようなもので、汗をかく熱の時には余り向いていないものばかり。

主殿が出張中なので母に実家にあったパジャマを持って来て貰う。

これもまたタイミングが悪かった。

母が来ている時に主治医が私をカンファレンス室に呼んだ。
当然母も一緒に来た。

高熱を出している私をわざわざ別室のカンファレンス室に呼ぶのだ。これがいい知らせの訳が無い。これから良くないことが起こるのが分かっているのに抵抗出来ない自分が本当に哀れだと思った。

主治医は腎生検の結果が大まかに分った旨を告げた。
結果はいいのか、悪いのか、実は微妙な所で、今治療法に関しては検討中であること、その治療法にも医師によってかなりの意見の差があることを説明してきた。

弱目の治療、中等度の治療、そしてかなり強い治療の3つが検討されていると。

弱目の治療はほとんど検討外であることは何となく分った。
弱目の治療以外は入院治療であることも何となく分った。
私の入院はもう長引くことが決まったようなものだとも分った。

そして医師はもし、強い治療が選択された場合、使用する薬によっては私の体の機能の幾つかが一時的、もしくは永遠に失われる可能性があることを示唆した。

「この段階でnauさんにお話しするべきではないかもしれませんが、治療法が決まってからお話ししてはnauさんの精神的ショックが大きいかと思いまして。こういう方向で検討しています、ということだけでもお話しておいた方がいいかと判断しました」

私はもう頓珍漢にも「もしその治療が取られたとして、私は何時家に帰れるのですか?」と問うた。
もう体云々じゃなくとにかく家に帰りたかったのだろう。
この時の気持ちは実は今ちゃんと覚えていないのだ。
そしてその後どうやって部屋に帰ったのかもよく覚えていない。

覚えているのは自分におおいかぶさって泣いている母の体の軽さと、この日生まれて初めて鼻が裂けたこと。
涙だけでなく鼻水が出過ぎ、かみ過ぎ、小鼻ではなく、真ん中の部分がパックリと裂けた。



名作「鼻」

(こんな感じでせうか)




でも全く痛みは感じなかった。
もうそれ以外のことで脳味噌が一杯一杯だったのだろう。
許容量が狭いのは助かる。広かったら鼻も痛くてしょうがなかった。

主殿が日本に居ない、老いた母も泣かせた、体は衰弱しきっていて熱は一向に下がらず悪臭を放つ自分・・・とにかく「どうして?」という気持ちしかなかった。
本来であれば丸一日で終わる検査なのに、もう一体何日私は解放されないままなのか。
しかも検査結果と治療方針に明るいものは無かった。

朝晩2回扱われる点滴の操作は大体覚えていた。
もうこの抗生物質をコッソリ抜いて捨ててしまおうか。
点滴を嫌がる私に医師が言った「熱が下がらない状態で点滴を止めてしまっては体内に残っている菌によって敗血症を起こす危険があります。ましてや今は体力が落ちています。点滴を止めるわけにはいきません」という言葉が頭の中を反芻した。




余りに効かない抗生物質に見切りをつけ、新たな抗生物質が投入された。

不思議なことにこれがまたピッタリと効いたのか熱がスルスルと下がった。
数日振りの6度代。
こうなると体も少し楽になる。
そして私は念願の風呂に入ることを許された。
折りしもその日は主殿の帰国の日だった。

これがうれしくない訳が無い。
久しぶりに悪臭から解放され、髪も梳いた私は久しぶりに明るい気持ちになった。
主殿の到着は4時の予定だった。
もし順調にいけば8時の面会時間までに来てくれることになっていた。
あの悲惨な見送りをしてしまったのだ。もし会えたら笑顔で迎えたかった。

4時、私はソワソワしながら携帯エリアに移動し、成田空港のフライトインフォメーションのHPにアクセスした。主殿の帰国便を探し、到着時間をチェックする。

到着時間は18時となっていた。 ・・・2時間の遅れ。

今迄30分前後の狂いはあったが2時間なんて初めてだった。
もうこのときの私は普通の精神状態ではなかった。たちまち目の前に「テロ」「ハイジャック」「遺族」「未亡人」という単語がグルグル廻りその場にへたり込んだ。
震える手で成田空港に電話をし、担当に何故2時間も遅れているのかを泣きながら問う。

「現地でのメンテナンスの遅れですが?フライトには支障はありませんよ」

怪訝そうに係りは応えた。

結局6時に帰国した主殿はこの日、面会時間には間に合わなかった。

この夜、私はぼんやりとここで私が期待したり、喜んだり、笑ったりすると絶対に良くないことが起きるなーと考えていた。実際これまでことごとくそうだった。今日も会えることを期待していたらこんな展開だ。

今もあの夜の顔の力がどんどん抜けて行くような変な感覚はしっかり覚えている。


東京「お入院」生活  9・再犯 

私は何も悪いことをしていないのにどうしてこんな目に遭うのだろう。

94時間の間、一体何度こう思ったことだろう。

今時犯罪者だってこんな扱いを受けないのではないだろうか。
動けるのに動かないよう強制され、常に痛みにまみれ人に見下される。
本当は必要の無い苦痛をこれでもかと強いられる。

だとしたら私はなにか気付かないうちになにか重大な罪を犯したのだろうか。





いねカット4


安静解除予定の月曜朝、多分私の精神状態は限界に達していたのだろう。
6時、カーテンを開けにきた看護師に対し、いきなり怒鳴り始めるという暴挙に出てしまう。

こんな何の力も金もコネも無い、無力な雑魚患者の怒りなど、巨大な病院に対して何の脅威も持たないことは常々十分理解し、その無駄さは分っているはずなのに、怒鳴らずにはいられなかった。

果たして私の怒りはナースステーションで「あらあら、あの問題患者さんキレちゃったの?しょうがないわね~」程度の波を起こし、もう一人の先輩看護師が来て私をなだめながら体をさする行為までは得ることが出来たものの、担当医師達の回診時間はいつも通り、きっかり8時半だった。

安静解除は三日前と全く同じに簡単な聴診と質問だけだった。

たったこれだけの為に私は昨日一体どれ程の苦痛を味わったことだろう。
あんた達の休日の都合でどれ程苦しんだと思っているの?!
どんな楽しい休日を過ごしたのよ?!その間人がどれ程痛かった思ってんの?!

睨みつけずにはいられなかった。

医師達が去ってすぐに看護師が来てカテーテルを抜く。
念願だった解放もすぐには信じられなかった。
また「はい、あと三日ね」と言われそうな気がして信じるのが怖かった。

ゆっくり起き上がるが余りに自分の体の重さに驚く。
手足の肉の削げ具合といったらまさにゴボウのようだ。
必死に起き上がり、吐き気が無いかを確認する。吐き気は無かった。

どうやら本当に解放されたらしい。私はゆらゆらとベッドを降りてみるが自分で立つのが困難な程、足に力が入らない。5日間の寝たきりの断食生活の「効果」は想像以上だった。
それでも私はどうしても自分でトイレに行きたかった。
「それ」が私にとって解放の象徴だったのだ。

点滴棒を掴み、それを杖代わりにトイレに向った。

今にして思うと何を無理なことを、と呆れるが、この時私の頭には「明日は無理でも明後日には家に外泊してやる」と言う思いしか無かった。
こんな、足腰が弱った状態で家に帰れる訳もないのに、とにかく私はここから逃げ出してやる、という執念にかられていた。
その為には今しんどくてもとにかく早く一人で歩けるようにならなければ、と必死に点滴棒を片手に廊下を歩きトイレに向う。

5日ぶりの自分で行くトイレ。

これがどれ程幸せなことか。

笑える図だが私はトイレの中で感涙にむせぶ。



(・・・この時で私の幸せのハードルは本当に1センチまで下がったのだと思う。
自分でトイレに行き、その行為に嬉し涙を流すのだ。
もうどんなことでも私にとっては超ハッピーな出来事になるだろう。)



フラフラしながら部屋に戻っていると担当医師3人とすれ違った。
私は当然無視した。彼らもこの哀れな敗者に手を差し伸べようとはしなった。

まさに私達がすれ違う時、火花が散ると言うか、決別の「ピシピシッ」というヒビの入る音が聞こえたような気がした。

担当医師と決別するなんてとんでもない怖いことだがもう私はそんなのどうでも良くなっていた。
というかどうでもいいはずだった。
もう解放されればこっちのものだ。
体力を回復させ、すぐに家に2、3泊外泊する。
病院に戻ってくる頃にはあの呪わしい腎生検の結果と治療法が出揃っているだろうから、それを聞いたらすぐに退院してやる。どうせ治療は通院で行われることだろう。通院なら担当は信頼するリュネット先生だ。

もうあんた達になんか用なし!!ラ・フランスよッ!!

あっかんべーーーーッ!!!   ・・・どんな三十路だ

・・・と、これ位のことを思っていた。
でもこれ位のことを思っても別に罪にはなら無いと思った。
むしろこれ位思っても許されるのではないだろうか、あの苦痛を思えば。

・・・ところがこれは私にとって重ね重ねの「罪」だったらしい。


安静解除から数時間後、私は元の大部屋に戻ることを促された。
なんでも翌日からこの個室を予約しているセレブな方がいるらしい。
雑魚はどけということだ。
まあ居るだけで23,000円の個室なので現実的には私も戻りたい。素直に従う。

ヨロヨロと準備をする私に看護師は「nauさんは空を見るのがお好きなようだし、ちょうど空いた窓際のベッドがあるんですけど、そこにしませんか?」とにこやかに言った。

嫌な予感がし始めた。

窓際のベッド・・・これは患者たちの間では「長期滞在席」とささやかれる嬉しくない特等席だった。



その夜、私は新たなベッドの上で必死に夕食を胃の腑の中に流し込んでいた。
とにかく今は食べないと体力が回復しない。
ここから出るためには食べないと・・・

必死に半分食べ終わり、看護師が取ってくれた8時の入浴時間を待った。
もう5日も風呂に入って居ない。
特に風呂好きという訳ではないが毎日入っていた私にはこれも耐え難い苦痛だった。
とにかくさっぱりしてゆっくり眠れば体力だってすぐに回復するはずだ。

そんな思いの私になにやら嫌な感覚が芽生え始めていた。
その嫌な感覚は時間と共に増してきた。

まさか・・・と思いつつ体温計を脇に挟む。

約90秒後、恐る恐る取り出した体温計が示していた体温は「8度8分」


腎生検はまだ私を解放してくれなかった。
5日間の寝たきり生活だけでは許してくれなかった。

担当医師達に牙をむいた報いなのか。
苦痛に耐えかねて怒鳴ったしまった行為の罰なのか。


次の私への罰ゲームは腎生検時の細菌感染による発熱。


最終的にこの熱から解放されるまで・・・後10日が追加された。

東京「お入院」生活  8・敗者 

「もうさ、ちょっと聞いてよ~、ひっどい目にあっちゃってさぁ~」的なノリで書くつもりで、多分5回位で終わるだろうと思っていたのに既にもうしつこく8回目になってしまった。

全く筆が遅いことこの上なし。

ただ・・・なんというのか、実は今でも今の自分の状況が受け入れきれていない部分がある。
そりゃそうだ、つい一月半前、元気一杯でいねを高らかに抱き上げていた自分が今ではもういねを抱くことすら出来ず、一人で出歩くことすら困難なほどの「病人」と化してしまった。

この半月、私の頭には常に「どうして」という疑問があり続けた。
答えは簡単で「腎臓がちょっと壊れてて、その検査をしたらちょっとアクシデントがあって、まあでもそれを乗り越えてちょっと強めの薬を飲み始めたから~」なのだが、それだけでは納得出来ない自分が居る。

この数日気付いたのだが、こうして一つ一つ嫌なことを思い出し、文字にすることで逆に自分がどうして今こうなっているのかに納得が出来ていくような、自分に言い聞かせているかのような、そんな感覚を覚え始めている。

・・・実はまだ私のお間抜けでカワイソウな展開は序の口を踏み越えた位でしかない。
しばらくの間、ダラダラダラダラ・・・・と書き続けることになりそうだが、個人の戯言ブログであることに甘え、書き、自分を納得させてゆけたら、と思っている。

体の治療と共に、気持ちの治療をさせて貰いたいと思う。



いねカット7


あんなに哀しい週末過ごしたのは初めてだ。

寝たきりを強制されて三日目の土曜日、主殿が夕方現れた。
実は主殿は週明けから海外出張を控えていた。出張前の忙しさは殺人的で、準備は完全に私の担当だった。本当だったらこの週末は外泊して自宅で主殿のスーツケースの前に座り込み、あれやこれやと詰め込んでいたはずだった。なんやかやと邪魔をしようとするいねを傍らに。

この忙しい人にこんな余計な手間を掛けてしまって・・・と思うと情けなくて恥ずかしくて申し訳なくて仕方なかった。主殿はこんなことをすべき人じゃない、もっと大事なことが一杯あるはずなのに。

この頃になるともう常に痛みがまとわり付いている為、呼吸するように涙が流れ続けていた。
腎生検当日、仕事を抜けて会いに来てくれたが、その時以来初めてみる妻の余りの状態に主殿は明らかに動揺していた。
わずか二日前、「大丈夫、よゆーよゆー」と笑っていた妻がやつれ、髪を振り乱し号泣しながら出迎えたのだから無理も無い。

枕元に座った主殿の手を泣きながら私は握り締め「痛い痛い」と訴える。
訴えた所で何も変わらないのは分っているが久しぶりに現れた「味方」にすがる気持ちだった。

土曜の病室というのは実は一番にぎやかだ。
スタッフも通常通り居る上に見舞客でにぎわう。
加えて退院が一番多いのも土曜日。
私のベッドの隣の、私が密かに「大部屋のデビ夫人」と称していた御夫人も今日退院だった。
御夫人は御丁寧にも朝6時からバタンバタンをベッドサイドの棚を開けたり閉めたりしながら退院準備を進め、その度に私のベッドにぶつかった。

僅かな振動でも骨に凍みるような痛みでうめくしかない私の傍で彼女は

「もぉ~病院のベッドってどうしてこんなに背中が痛くなるのかしら?!こんなの一晩だって寝ていられないわ。入院なんてするものじゃあないわね。ま、でも気分転換に数日っていうのもたまにはいいかもしれないけど」

と声高に語り、5日間の「気晴らし」な入院生活から去って行った。

カーテンしか見えない私の耳はやたらと色んな嫌な音を拾うようになっていたらしい。
とにかくもうどんなものも自分にとっては「敵」のようだった。

その中で現れた唯一の味方に僅かな安堵を感じた私だったがそんな時にすら「敵」の襲撃は手を緩めてはくれなかった。

カーテンをシャッと開け、甕を掲げた看護師がにこやかにこう「宣戦布告」した。


「nauさん、溜まったお小水、甕にあけますね」


痛みから逃れる為に気を紛らせる方法はとにかく水分を摂る位しかなかったので私は一日に2リットル以上の水を摂取していた。そのせいでカテーテルを通じたバッグはすぐに一杯になってしまう。それを日に何度か甕に空けるのだが、どうしてそれを今、こうして主殿が来ている目の前でやるのだろう。

無遠慮な音を立てて処理されるのを私は黙っているしかない。
そんな処理をされている姿を主殿に見られるのも辛かったが、何より何人もの他人の中でそんな処理をされる自分を見て欲しくなかった。

この時私は更に号泣しながら主殿に請うた。

「お願い、個室に入れて!!もう耐えられない!助けて!!」

入院手続きの日、あんなに「高い高い、もったいなーい」とせせら笑っていた個室への移動を、私は涙がならに訴えていた。




寝たきり強制四日目の日曜日。私はベッドごと個室に移動した。

個室は天井までの大きな窓が一面に開かれている。大部屋の真ん中だった私には四日ぶりの空がとても嬉しかった。個室に移るなり私はベッドの位置を一番高い位置まで上げた。
今までと違って少し「ここは私の部屋よ」というような優越感もあったし、目線を少しでもあげたかったのだ。

個室は快適だった。

大部屋では呻くことしか出来なかったがここでは一人でも「痛い痛い」と泣き叫ぶことが出来る。
バッグに溜まった液体を甕に移される音も人に聞かれないで済む。
そして何より午後一回行われる体拭きと下の洗浄を落ち着いて受けられた。

・・・そう、私は大部屋のあの薄いカーテンを隔てただけの空間でのその「処置」も甘んじて受けなくてはいけなかったのだ。
感染を防ぐ為、カテーテルを入れている場合一日一度は洗浄をしなければいけないと言われた時、私は腎臓の出血を起こした医師を本気で怨んだ。
出血さえ起こらなければこんなことを受ける必要はまったく無かったのに。

大部屋での体拭きと洗浄処置中、担当医師の一人が危うくカーテンを開けそうになる一瞬があった。
看護師がのんびりと「ケア中で~す」と言って難を逃れたが、その時私はどれ程肝を冷やしたことだろう。

しかししばしの安心感もたちまち体の痛みにかき消された。
相変わらずの体の痛み。そしてこの頃になると点滴を入れた部分の血管が腫れ上がり、左手の甲全体がぷっくりと腫れた。指輪が外せない位に。

時間の経過と共にこれでもかこれでもかという位痛みが増えてくる。
医師や看護師は「個室に移ったのだしもう安心して食事を食べて」と口を揃えたが、この頃もう私は食事を受け付けられなくなっていた。
痛みのせいで全く食欲どころの話ではなかったのだ。

夕方、再び主殿が現れた。
出張準備はまだ出来ていないという。もうそんなことでも私は哀しくて仕方なかった。

私達が黙って「ちびまるこちゃん」を観ている時に夕食が来た。
明日から出張に発つ主殿に心配をかけまいと私は少し食べた。
主殿が慣れない手つきで私の口にご飯を運ぶ。
あんなに哀しい味のご飯は初めてだ。砂を食べている気がした。

面会終了時間の8時。
私は「来週は絶対に家に居るから」と泣きながら言った。主殿は「そうして。待ってるからね」とだけ言って静かに帰った。当然私は見送ることも出来ない。醜く横たわったまま髪を振り乱し、号泣する姿のまま。

そして当然この約束が守られることは無かった。



いつもの出張では私はいねと一緒にタクシーに乗り込む主殿を見送るのが常だった。
いねはタクシーに乗り込んだ主殿にガラス越しからパタパタと尻尾を振り続けていたものだ。
見送ったその足で近所の大好きな公園を2人で散歩する・・・それがいつものありふれた光景。


・・・あの光景は本当に私自身のものだったのだろうか?


東京「お入院」生活  7・苦行 

いねカット2


後で計算してみたところ、私の寝たきり時間は94時間に達していた。

「94時間って言ったって寝てるだけでしょう?そんなに大変じゃないじゃない」

とおっさる方がいらしたら是非とも94時間、「一時」も上体を起こさずに過ごしてからおっさって頂きたい。

「一時も」 これが何を意味するのかも十分理解しておっさって頂きたい。

しかも慣れた自分の上質なマットレスのベッドではなく、病院のベッドの硬さを再現して。
カーペットの上にタオルケットを5・6枚重ねた程度だろうか。






私はこの時点で既に23時間ベッド上に固定されていた。
もう少しで解放。起きられる、歩ける。もうそのつもりでいたと思った瞬間「あと70時間ね」と宣言された。
正直、いまあの瞬間から数時間を何をどう考えて過ごしていたのか思い出せない。
ショックと、怒りと、恐怖・・・多分恐怖が一番大きかったように思う。

現在金曜日。月曜の朝まで大腸が催さない可能性は低いではないか。
自分が十分動ける状態なのにあえて自分の意思で動きを抑えた上で人前で排泄・・・?
しかも部屋には常に5人以上の顔見知りがうごめいているのだ。
薄いカーテン一枚隔てただけで・・・?
しかも無神経な医師などは名を呼ぶと同時にカーテンを開けたりする。
(私は一度これで着替え中の姿を見られた)

これで恐怖を感じない女がいるだろうか。

頭の中がグルグル廻っていた私の前のカーテンが空き、看護師が昼食を持って現れた。

「nauさん、お食事です。一人で食べるのは大変でしょうから介助しますね」


「要りません」


私はそっぽを向いたまま即答した。

こうなったら断食しかない。
「材料」が無ければ「製品」は出来ない。幸い私は前日からかなり食事を控えていたため腹の中はすかすかだった。
なぁに、水分はいくらでも摂れるのだし、人間三日や四日喰わなくても死ぬ訳がない。
ましてや寝たままだ。カロリー消費もほとんどされない。
食べる必要など今の私には無いではないか。

私はそう決意した。

こうして私の断食生活が始まったがこれは皮肉にも思わぬ弊害を私にもたらした。

寝たきり状態での断食は想像以上の速度で私の体力と僅かに残っていた柔らかな肉を削ぎ落としていった。
寝たきり状態で一番辛いのは床ずれ一歩手前の体の痛みだ。
これから逃れる為に唯一できることは寝返りしかないのだが、断食によってそれをするための体力も激減し、いちいち億劫になってきてしまった。それでも硬いベッドで1時間同じ姿勢ではいられない。

私の家の近所に美味しい鯛焼き屋がある。
職人はリズミカルに鯛焼きをクルクルとひっくり返し、微妙な焼加減で仕上げ、私は良く出来たてを頬張って歩いた。

あの職人みたいに私をひっくり返してくれる人が居ればいいが、私は自分で必死に寝返りを打たなくてはならない。痛みから逃れようと必死に打つ寝返りはまたイジワルにも私の体力を確実に奪った。

おまけに肉が削げ落ちてしまってはもうベッドにあたる関節部分を保護してくれるものは何も無い。

既に寝たきり状態は丸一日以上、鈍痛は激痛に変わりつつあった上、絶え間無いものになっていたが、それでも私は食べることを拒否した。
この時の私の中では人前で排泄する恐怖は痛みに勝ってしまったらしい。

・・・というか寝たきりも二日目、そしてこれからあと数日このまま、というこの頃の私はもう人が怖くなって仕方なくなっていたのだ。

人の視線の位置というのはあんなにも精神状態に影響を与えるものなのかと今改めて思うが、ずっとベッドに横たわる私に対して医師も看護師も決して目線をあわせようとする人は居なかった。

病棟ではスタッフはほとんど医療用の青いマスクを掛けていた。
白い服を着、マスクを掛け、目だけを出した大きな人間が入れ替わり立ち代り1メートル以上上から私を見下ろしてくる。
常に痛みを感じ、空腹感で朦朧としていたせいもあるが、私は彼らにたちまち恐怖を感じるようになった。

悪いことに私の担当医師たちは3人とも背が高く、とりわけ主治医は180センチ近かったのではないだろうか。彼らの回診の時はことに怖かった。

正直言うと、白衣で青いマスクを掛け、眼鏡を掛けた3人に見下ろされている瞬間の記憶は今でも、なんというのだろう、フラッシュバックというのだろうか、脳裏に甦る時がある。

人に対して恐怖感が出始めているというのにこれで排泄など考えられなかった。


私はそんな中で唯一マスクを付けずにこやかに「何かあったら何でも言って下さいね」と言ってきた看護師に睡眠薬を頼んだ。
もうこうなったら安静解除まで眠っていたかった。

でも「昼夜逆転すると困りますので・・・9時になったらお渡ししますから」とにこやかに却下される。
「うそつき」・・・もう誰も周囲で味方してくれる人は居ない。

私の見方は9時に渡される睡眠導入剤と夜中に打たれる痛み止めの点滴のみ。



痛みは時間の経過と共に増してくる。私は動こうと思えば動ける力があるのに、あえて自分の意思で動かないで醜くのた打ち回っている。


安静解除まで、まだ丸二日以上残っていた。